徒然なるままに

原発や火力発電どころか、電気そのもののなかった時代の空気を吸いに行くため、というわけでもないが、京都のお寺に行ってみた。御室の仁和寺。

中学のときに国語で習った徒然草に、仁和寺の和尚さんのことがでてきたな、と思い出す。岩清水八幡にまだ参拝したことがなかったのである時思い立って一人で出かけた和尚さん。山麓にあるいくつかの社寺を拝んでこれだけのものかと早合点して帰ってしまった。本堂は実は山の上にあったのに気づかないまま。なんでもないことでも案内者は大切である。

そんな気楽な面白い一節のあるお寺ではあるが、本来は、宇多天皇が完成させ、明治維新までは皇子皇孫が門跡となられた由緒ある寺院で、平成6年には世界遺産に登録されている。最初にくぐる二王門には左右に金剛力士が安置され力強い表情が目をひく。本堂は、応仁の乱で消失した後、京都御所の紫宸殿を移築した建物で、瓦葺きの優雅な建物である。敷地内の宸殿からは池を配した晴れやかな庭が眺められ、縁側に腰をおろすと池で遊ぶおしどりのつがいが可愛らしく目にとまった。

仁和寺のくだりしか覚えていないが、徒然草はどんなことが書かれていたのだろう、と思い、ふと現代語訳を手にとってみた。すると、かなり自由な発想で、おもしろいことが書かれているのにびっくりした。たとえば、こんなくだり。

「妻というものこそ、男の持ちたくない者ではある。・・どんな女であろうと、朝夕いっしょにいたら、うとましく憎らしくもなろう。・・別居してときどきかようて住むというのが、いつまでも長つづきする間柄ともなろう。ちょっとのつもりで来たのがつい泊まり込んでしまうのも、気分が変わってふたりには珍しくたのしかろう。」

このような一節は、中学時代の国語の授業では出てこなかったなあ。冒頭の早合点した和尚さんの話も、それが由緒ある門跡寺院の和尚さんの失敗というところが、当時の人々にはよけいに面白く読まれたのだと、今にしてみたら理解できる。電気のなかった時代の気持ちに戻って、おもしろいものをあれこれ発見できるのも、日本のよさであるなと思った。

追記:京都散策を俳句に詠んでみました。

「北山へ 遅日の夕に 足伸ばす」

哲也先生に、なおしていただいて、

「北山へ 遅日の足を 伸ばしけり」

なおしていただくと、ぐっと格調高くなる感じです。「の」の使い方ひとつ、そして「夕」を省くことでこんなに違ってくるのだとちょっと感動しました。