アンコールワット

2013年の元旦はアンコールワット遺跡で迎えました。初日の出は残念ながら曇りでかすんでしまいましたが、日がすっかり昇りきると水面に写る左右対称の荘厳な寺院の姿がはっきりと現れ、神秘的なムードに包まれました。


12世紀前半、インド文明に憧れたアンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンズー教の寺院として30年を越える歳月を費やし建立されました。入り口ではシンハ(獅子)像がこま犬のように鎮座し、堀の欄干にはナーガという蛇神がいたるところに頭をもたげています。門にはヴィシュヌ神が立ちヒンズーの世界に招き入れてくれます。

砂岩とラテライトで築かれた伽藍の回廊の壁は、古代インドの叙事詩である「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」を描いたレリーフが、絵本を見るようなストーリー展開で埋め尽くされています。ちょうど日本でいうところの昔話の桃太郎のような存在だそうです。


わずかに残っている赤い色はうるしの色で、当時は壁も天井も鮮やかな赤に塗られていたとのこと。そんな華麗なヒンズー寺院も1431年頃にはアンコールからプノンペンに王都が遷るとともに一時は忘れ去られますが、1500年代に再発見され、今度は仏教寺院として改修されます。12世紀にはヒンズー教が信じられていましたが、この時代の王は仏教を信奉していたのです。このため廊下や祠堂には数々の仏像が。1632年には日本人の森本右近大夫一房という人がはるばる参拝し、壁面に墨書を残しています(つまり落書きです)。「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」と記されています。何故、江戸時代に日本人がここに?!

江戸幕府三代将軍徳川家光は、長崎のオランダ語の通訳・島野兼了にインドの仏教の聖地「祇園精舎」の視察を命じました。その頃、プノンペンの日本人町の人達はアンコールワットが祇園精舎であると誤認していた為、その誤った情報が日本にも伝えられ、大勢の日本人が祇園精舎の参詣としてアンコール・ワットへ出かけていたそうです。それにしても、平家物語の冒頭の「祇園精舎」がインドの聖地であったということを今回の旅で初めて認識しました。

落書きをした森本右近大夫一房とは別のある人物が、インド「祇園精舎」であると思い込んだままアンコール・ワットを視察し、一枚の「見取図」を作成。それが当時の長崎奉行・藤原忠義によって正徳5年 (1715年) に模写され、その後所有者の変遷はあったものの『祇園精舎図』と題された古地図は、今も彰考館(茨城県・水戸市)に保存されているそうです。この見取図は明治末期になって、鑑定の結果、全体構造から推してアンコール・ワットの見取図であることが判明しました。江戸時代からの日本との関わりにびっくりさせられます。

しかし、そのアンコールワットは、1972年、カンボジア内戦によって建物の一部が破壊され、この時に多くの奉納仏は頚を撥ねられ砕かれ敷石にされたそうです。クメール・ルージュは政権を追われるとアンコールワットに落ちのび、祠堂の各所に置かれた仏像はさらなる破壊を受けています。内戦が収まりつつある1992年にようやく地雷もほとんど取り除かれ、アンコール遺跡として世界遺産に登録され、1993年にはこの寺院を描いた国旗がカンボジア国旗として制定されました。まだちょうど20年しかたっていません。すっかり平和な日本から海を渡って内戦の弾痕の残る遺跡を歩き、一ヶ月もしないうちにアルジェリアでの悲惨なテロが勃発しました。世界が安定するのは、まだまだ遠い先なのかと正月早々やりきれない気分です。