2011年5月 のアーカイブ

サプライズをありがとう

2011年5月26日

昨夜は、眼科スタッフと素敵な仲間たちによるパーティが開かれた。


そう、私の誕生日が迫ってきたのと、眼科開院16周年を祝ってのHAPPY BIRTHDAY パーティである。


こんなサプライズなケーキも登場。谷眼科のハートのマークが乗っていて可愛い!こうやって素敵な仲間たちに祝っていただき、こんな嬉しい瞬間に恵まれるなんて。じわっとこみ上げるものを感じてしまい、感謝の気持ちでいっぱいになった。ありがとうございます!!

阪神淡路大震災直後の1995年5月に開院して、気がつけばもう16周年。街は見違えるように復興し、みんなで確実に成長してきている実感がある。明日からもがんばろう。そして、東北の震災復興が着実にすすむことを心より応援している。

正嘉(しょうか)の大地震

2011年5月20日

前回書いた仁和寺へ出かけた同じ日、その前に京都市美術館で開かれていた「親鸞展」を観た。展示の中に日蓮上人の「立正安国論」というのがあったのだが、一緒に行った友人が以前に仏教に興味を持って勉強していた頃にその対訳本を購入して持っている、と言って貸してくれた。鎌倉時代にも大地震があったようだと言っていたのが気になって借りて読んでみた。

すると、驚いたことに、正嘉(しょうか)元年、1257年2月から8月にかけ、京都、関東、そして鎌倉に連続して地震、台風、炎天などの大災害が起こっていた。特に8月の大地震の被害は甚大で、鎌倉の神社・仏閣はことごとく倒壊、山は崩れ民家は破壊し、土地は割れ青い炎が吹き上がり、死者は鎌倉だけでも2万人以上とされている。この惨状の中で民衆は家なく食なく、増加したのは乞食だけ。しかし当時の幕府の政治形態は、すべてが権力者中心で自己または一族の保身が優先されていた時代であって、社会的弱者の救済などは考えられてもいなかった。この状況下で、日蓮上人は、この災害について思索するため寺にこもって経典や論書等を研鑽し、立正安国論執筆の準備をしたとのことである。

また、しばらく前、テレビ番組で、鎌倉の大仏がなぜむき出しでそびえているのかを解説していた。鎌倉の大仏は、学生時代に友人と観に行ったので懐かしくなり解説に聞き入った。本来大仏は、社殿に安置されていたのが、室町時代の大地震と津波により建物が全壊し、大仏だけがむき出しで残ったそうである。柱などが倒壊した際に出来たキズが大仏の腕に残っている。

昨日5月19日の夕刊には、貞観(じょうがん)869年の大津波と5世紀の大津波の記事が掲載されていた。東北地方を過去2回巨大津波が襲い、海岸が沈降したそうである。日本という国には、はるか昔から現在に至るまで、大地震が長い間隔ではあるが定期的に訪れているのだということが今更ながら再認識させられる。すでに多くの人が、正嘉や貞観の大地震についてブログなどでさまざまに述べておられる。中には、今回の東日本大震災よりも前にこれらの地震について述べている人もいる。原発の安全対策には、過去の震災の教訓は生きていたのだろうか。

徒然なるままに

2011年5月8日

原発や火力発電どころか、電気そのもののなかった時代の空気を吸いに行くため、というわけでもないが、京都のお寺に行ってみた。御室の仁和寺。

中学のときに国語で習った徒然草に、仁和寺の和尚さんのことがでてきたな、と思い出す。岩清水八幡にまだ参拝したことがなかったのである時思い立って一人で出かけた和尚さん。山麓にあるいくつかの社寺を拝んでこれだけのものかと早合点して帰ってしまった。本堂は実は山の上にあったのに気づかないまま。なんでもないことでも案内者は大切である。

そんな気楽な面白い一節のあるお寺ではあるが、本来は、宇多天皇が完成させ、明治維新までは皇子皇孫が門跡となられた由緒ある寺院で、平成6年には世界遺産に登録されている。最初にくぐる二王門には左右に金剛力士が安置され力強い表情が目をひく。本堂は、応仁の乱で消失した後、京都御所の紫宸殿を移築した建物で、瓦葺きの優雅な建物である。敷地内の宸殿からは池を配した晴れやかな庭が眺められ、縁側に腰をおろすと池で遊ぶおしどりのつがいが可愛らしく目にとまった。

仁和寺のくだりしか覚えていないが、徒然草はどんなことが書かれていたのだろう、と思い、ふと現代語訳を手にとってみた。すると、かなり自由な発想で、おもしろいことが書かれているのにびっくりした。たとえば、こんなくだり。

「妻というものこそ、男の持ちたくない者ではある。・・どんな女であろうと、朝夕いっしょにいたら、うとましく憎らしくもなろう。・・別居してときどきかようて住むというのが、いつまでも長つづきする間柄ともなろう。ちょっとのつもりで来たのがつい泊まり込んでしまうのも、気分が変わってふたりには珍しくたのしかろう。」

このような一節は、中学時代の国語の授業では出てこなかったなあ。冒頭の早合点した和尚さんの話も、それが由緒ある門跡寺院の和尚さんの失敗というところが、当時の人々にはよけいに面白く読まれたのだと、今にしてみたら理解できる。電気のなかった時代の気持ちに戻って、おもしろいものをあれこれ発見できるのも、日本のよさであるなと思った。

追記:京都散策を俳句に詠んでみました。

「北山へ 遅日の夕に 足伸ばす」

哲也先生に、なおしていただいて、

「北山へ 遅日の足を 伸ばしけり」

なおしていただくと、ぐっと格調高くなる感じです。「の」の使い方ひとつ、そして「夕」を省くことでこんなに違ってくるのだとちょっと感動しました。

アナログとデジタル

2011年5月4日

娘と買い物中に突然訊かれた。「ママ、アナログって日本語に訳すと何?」あれっ。明治以来、日本人はありとあらゆる外来語を日本語に置き換えてきた。ベースボールを野球と訳した正岡子規しかり、オートモービルだってハイスクールだって、ほとんどが漢字の熟語で表現されている。しかし、アナログ・・・「パパのような人間のことを言うんだよね」、と、娘。いや、それはこの時代に携帯電話も持たない人間とかほとんどパソコンを使いこなさない人間とかいうことなどで二人の間では通じるが、一般的な説明にはならない。「時間を連続的に表す文字盤の時計みたいなのがアナログよね」、と、私。でも日本語訳というと・・。

辞書で引いてみると「物質・システムなどの状態を連続的に変化する物理量によって表現すること」あらら、こんな難しげな訳になるのか。では、デジタルを引いてみると、「物質・システムなどの状態を、離散的な数字・文字などの信号によって表現する方式」自然界のものごとは、通常連続的に変化すると思うので、この世の出来事はアナログ、それをシステム化させて理論的に整数に置き換えた世界がデジタルなのか、と思った。しかし「離散的」を引いてみると「「連続的な集合の部分集合がばらばらに散らばった状態であること。この集合を離散的部分中郷と呼ぶ。実数の中の整数全体がその例。量子力学では、物理量が離散的な値をとることが特徴」つまり、量子力学の世界では、デジタルが理論上だけのものでなく、自然界そのものであるのだ。

この世の自然界を小さく細かく分解していくと、量子力学というデジタルの世界に行き着くわけであるが、とはいえデジタルの感覚を持つ科学者が、デジタルの世界が全て正しくて万能だと思うのはちょっと怖い。アナログとデジタルの両方の感覚をバランスよく持ち合わせていきたい、などとふと思った。

追記:先日、仏文学者の先生が患者さんとして来られ、このモノローグを読んでくださっているとおっしゃってくださいました。そして、面白いことを教えてくれました。

「デジタルは、フランス語にもあります。digital 形容詞。意味は、1)指の 2)(コンピューターなどの)デジタルの。」

「指の」→「指で数えることができる」→「デジタル」となったようで、デジタルはやはり辞書でひいてもカタカナのままでした。仏文学の先生によると、カタカナ4文字はあまりに日本語にぴったりマッチするので、あえて熟語に置き換えないことがちょくちょくあるとのことでした。指的、とかあまりに変ですしね。